R5.10.6  歴史講座「京都の祭り」

                                                                                                                   講師 京都歴史探索会代表 冨永 正治 氏

<京の三大祭り>

〇 葵祭

 ・正式には「賀茂祭」

 ・今から約1500年前に始まったとされる賀茂(かも)御祖(みおや)神社(下鴨神社)賀茂(かも)(わけ)(いかづち)神社(上賀茂神社)の例祭

 ・5月初旬からさまざまな行事(前儀)が行われ、5月15日には京都御所を出発し下鴨神社を経て上賀茂神社まで、約8kmもの距離を平安装束

      をまとった人々が練り歩く「路頭の儀」が開催される。

   あおい……「路頭の儀」の御所車、勅使、供奉者の衣冠などに飾られた緑の葉。葵桂(あおいかつら、きっけい)ともいう。桂の小枝に下鴨

                           神社と上賀茂神社の神紋である「二葉葵」の葉を絡ませたもの。

   ※(さい)(おう)(いつきのみこ)……伊勢神宮や加茂神社に奉仕した未婚の内親王又は女王のこと。

   ※斎王代……1956(昭和31)年に斎王にちなみ斎王代と女人列が創設された。京都ゆかりの未婚の一般女性から選ばれ斎王の代理というこ

                           とで「斎王代」となる。一説には、選ばれると23千万円の寄付が必要といわれている。 

〇 祇園祭

 ・八坂神社(祇園社)の祭礼で9世紀より続く。明治までは祇園御霊会(ぎおんおんりょうえ、御霊)と呼ばれた。

 ・祭行事の主催は、八坂神社山鉾町とに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「園祭」と認識されることが多い。

 ・山鉾行事は前祭(さきまつり 717)後祭(724)の2つに分けられ、「宵山」と山鉾巡行」が有名である。

 ・山鉾の組立ては釘を一切使わず縄だけで行い、普通3日間を要する。祭が終わり解体する時は1日の短時間で終える。使用する荒縄の総延

      長は約5km

 ・山鉾の巡行順は巡行の先陣争いが絶えなかったため「くじ取り式」により決定するが、前祭23基、後祭11基のそれぞれ5基ずつを固定順

      としている。前祭の先頭は必ず「長刀鉾」

 ・八坂神社主催の神事は「神輿渡御」や「神輿洗」、また花傘連合会が主催する「花傘巡行(24)も行われる。

 ・神幸祭・還幸祭(神輿渡御)は八坂神社の中心行事であり、八坂神社から中御座神輿(なかござみこし)東御座神輿西御座神輿の大神輿3基に

      召した神々が各氏子町を通って渡る神事

 ・「神輿洗」は鴨川の水で神輿を清める神事。飾りを解いた中御座神輿だけを夕刻の四条大橋に運び出して行う。神幸祭に先立つ7月10日と

      還幸祭の後の728日の2度行う。

 時代祭

 ・平安神宮の例大祭(10月22日)に開催、1895(明治28)年から始まった。

 ・京都御所の建礼門前から平安神宮までを行進する風俗行列である。

 ・現在では先頭から ①明治維新時代 ②江戸時代 ③安土桃山時代 

  ④室町時代 ⑤吉野時代 ⑥鎌倉時代 ⑦藤原時代 ⑧延暦時代の8つ

  の時代、20の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた

  人々で行われ、総勢約2,000人、長さは2kmに及び約3時間の行程と

  なる。

 ・京都府民が主体となる住民あげての祭りである。     I.M        


R5.10.20  高山右近

                                      講師 大阪府高齢者大学校 清水 秀司 氏

〇 高山右近について

 ・右近は1552年に高山で生まれ、幼名は彦五郎、長じて友祥(ともなが)通称は右近。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名で代表的なキリシタン大名。また、右近は千利休七哲の一人で号は高山南坊(みなみぼう)

・父の飛騨守は洗礼を受け「ダリヨ」、右近は12歳の年に洗礼を受け「ジュスト(義人の意) 」 飛騨守の入信以来12年で一族・家臣のほとんどがキリシタンとなる。飛騨守の妻は「マリア」、右近の妻は「ジュスタ」で二人の間に4男2女が生まれた。

1614加賀で暮らしていた右近は徳川家康による国外追放令を受けて加賀を退去した。

 ・長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、12月に到着。マニラ到着から40日後の1615年1月8日に死去、享年63歳。右近の死の

  翌年に家族は日本への帰国が許された。石川県・福井県・大分県に3つの高山家がある。

 ・右近の銅像は、マニラ市プラザデラオ比日友好公園内、国内では石川県七尾市本行寺境内などに5体あり。

 

〇 高山父子の主君・居城の変遷

・父の高山友照(飛騨守)1558年に大和国主松永久秀の配下で宇陀(うだ)郡の沢城主となる。もともとは摂津国三島郡清渓(きよたに)高山

 に城を構える地頭であった。

1565三好三人衆将軍義輝を殺害、飛騨守は沢城を守るが三人衆に攻められて落城したため、郷里の摂津高山に逃れた。

 ・1568織田信長足利義昭を奉じて入洛。信長を助けた和田惟政(これまさ)が摂津守護に任じられ、飛騨守に芥川城を預けた。

 ・和田惟政が高槻城主の時に高山父子は惟政家臣筆頭として高槻に移り住んだ。

 ・1571和田惟政・高山父子荒木村重・中川清秀との戦で、和田惟政が戦死。芥川城主である高山父子は兵を高槻城に収め、和田惟政の子惟長(これなが)を立てて高槻を死守した。

1573年3月に高山父子が高槻城で重要な地位を占めるようになると、惟長は高山父子を暗殺しようと図ったが、荒木村重の応援を得て惟長を討ったが右近は重傷を負いて長期病臥することになった。

 ・高山飛騨守が高槻城主となったが隠居して負傷の癒えた右近に譲った。名を友祥(ともなが)と称してキリシタン大名となる。

1585年に秀吉から播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ、船上城を居城とした。

1587年6月19日に秀吉が「伴天連追放令」を発布したため、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選ぶ。

 その後、小西行長に庇護され、小豆島や肥後国などに住む。1588年には前田利家に預けられ加賀国金沢につく。

 ・1595年に右近の父飛騨守(ダリヨ)死亡

 

〇 キリスト教の伝来から禁教へ

1549年7月2日に初めて南蛮僧達が鹿児島に上陸。1550年暮れにフランシスコ・ザビエルが入洛し周防の山口で布教を開始。

1569ルイス・フロイスは面会した信長から布教・居住許可の信長の朱印状、将軍義昭から制礼が下付された。

1569年日蓮宗の朝山日乗が朝廷に働きかけて伴天連追放の論旨が下った。

1578年5月に右近がイエズス会修道士を招いて百姓等に説教を聞かせたため、800名の人々が洗礼を受けた。

 ・1581年には高槻の領民25,000人の内18,000人がキリシタンに、領内各地に20主堂が建設。

・右近は領内の神社仏閣を破壊して神官や僧侶を迫害したため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らずという異常な事態に陥った。その影響が絶大であったため、領内の住民がほとんどキリスト教徒となった。 

 ・161312キリシタン禁制の発布                                 I.M