◇「古墳を訪ねて」--関西大学吹田キャンパスへ

日時:2023年6月16日(金)10:00--11:45

場所:関西大学吹田キャンパス--関西大学博物館

講師:関西大学博物館学芸員の方々

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阪急千里線関大前で集合後、関西大学吹田キャンパスの「裏門」から入り、目的地(関西大学博物館)まで

階段を上がって また、階段を上がって、坂を上がって、またまた階段を上がって また坂を上がって、ようやく目的地に

たどり着きました。


 

今回、学芸員の方々が講師となり関西大学博物館の各展示室の貴重な資料、作品についての説明/講義を受講させていただきました。

--年史資料展示室企画展、常設展示室、特別展示室、高松塚古墳壁画再現展示室--

 

●関西大学の沿革

1.関西初の法律学校

1886(明治19)年11月4日、関西大学の前身である「関西法律学校」が、若き井上 操氏、小倉 久氏、堀田 正忠氏らの

司法官によって、大阪西区京町堀の「願宗寺」に設立されました。 

 

2.大学(旧制)への昇格

1922(大正11)年、千里山に学舎が新設されました。

法学部と商学部の2学部をもつ大学として認可されました。

(それ以前は、国立の大学はありましたが、この年、私立の大学として認可されました)

総理事兼学長となった山岡 順太郎氏は、新しい大学の理念として「学理と実際との調和」を提唱し、

公開講座や語学講習会の開催、留学生の派遣、体育の奨励などに力を注ぎました。

 

3.新制大学--関大ルネッサンス

1947(昭和22)年、第2次世界大戦後の荒廃から関西大学が立ち直ろうとするとき、

学長の岩崎 卯一氏は、「われら関西大学は、いま文化的ルネッサンスのあけぼのを迎えんとしている」と

学生に呼びかけ、「関大ルネッサンスの中核は何ものであるか」を問いかけその結果、

翌1948年4月、第1部・第2部とも法、文、経済、商の4学部(男女共学)を有する新制大学に転換しました。

 

4.現代の関西大学

現在、関西大学は法、文、経済、商、社会、政策創造、外国語など13学部と、大学院、法科大学院、留学生別科などを

擁する総合大学になっています。

千里山キャンパス(本部)を含む8つ(高槻、梅田、東京センターなど)の関大校があります。

 

学生数は、約30,000名 他、併設校(中学、高校など8校)で約2,000名の生徒が学んでいます。(2022年5月1日現在)

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●関西大学博物館

関西大学博物館は、1954(昭和29)年、末永雅雄名誉教授が設立した考古学資料室を前身に

1994(平成6)年4月、博物館相当の施設として開館しました。

この博物館は、関西大学のキャンパスで最も古い建物「簡文館」の2階に位置しています。

簡文館は、関西大学の建築物では初めて「登録有形文化財(建造物)」として登録を受けいます。

 

◎年史資料展示室 企画展

関西大学の歴史、山岡順太郎氏など関連の資料が展示されています。

◎常設展示室

縄文時代 弥生時代から古墳時代、奈良・平安時代頃までの考古学資料を常設展示しています。

このうち、大阪府藤井寺市国府遺跡出土資料や奈良県天理市渋谷出土の石枕などの重要文化財も展示されています。

重要文化財16点、重要美術品12点を含む約15,000点の考古・歴史・民俗・美術工芸・自然科学などの資料を収蔵されています。

◎特別展示室

夏季企画展「浪速の町絵師 菅楯彦が愛した大阪」(期間:6/11~7/22)が開催され今回、見学する(無料)ことができました。

 

菅楯彦」(1878~1963)は、近代の大阪で人気を博した町絵師でした。

1920(大正9)年から、自らの印に「浪速御民」の文字を使用し、1962(昭和37)年には大阪市名誉市民賞を受けました。

作風は、軽妙酒脱で親しみやすく、洗練された独自のスタイルを確立していました。

描かれた大阪の風景や人々の姿は「浪速風俗画」と呼ばれ、現代人が忘れつつある江戸末期から明治初期の

大阪の雰囲気を伝える貴重な資料でもあります。

 

なお今回の展覧会では、菅楯彦氏作品を愛する個人コレクターによる300点を超えるコレクションの中から

珠玉の名品を厳選し展示されています。

かけ軸だけでなく、茶器や帯などに描かれた作品を「無料」で楽しむことができました。

◎高松塚古墳壁画再現展示室

博物館の外に設けられています。

1972(昭和47)年の高松塚古墳の発掘調査は、明日香村の村史編纂事業として奈良県橿原考古学研究所によって

実施されました。

この発掘調査は、故網干善教名誉教授(当時助教授)の指揮のもと関西大学考古学研究室の大学院生や学生が参加して行われました。

 

この古墳は、紀元694年から710年頃に作られた直径20m、高さ約5mのほどの墳丘をもつ古墳でした。

「高松塚古墳壁画再現展示室」では、この墳丘のイメージをドーム状の透明ガラスで表現し、

その中に精緻な美術陶板で再現した壁画を設置しています。

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帰路は、坂を下って下って下って「正門」から出て集合場所であった阪急千里線関大前へ行きました。

 

後記

・関大OBの受講生から 「懐かしい。よい学校ですよ」とのコメントでした。確かにそう思う!!

 

・昼食:数か所にある学生食堂で、早昼食でした。久しぶりでした。安くて味はまあまあでした。

 

・そして、「無料」とのガイドさんのお言葉--「関西大学博物館紀要:第29号・令和5号3月発行」そして

 アンケート後、「3色のボールペン」をいただきました。

(トイレットペーパーに、KANSAI UNIVERSITYの印刷がありました)

 また、訪問したいところですね!!    OS


◇大阪くらしの今昔館見学

 

日時:2023年6月16日(金)13:00から15:00

場所:大阪市北区「大阪市住まいのミュージアム--大阪くらしの今昔館」9階

   および「モダンな都市・大阪パノラマ遊覧」8階

講師:館内専任ガイドの方々

   「常設展--大阪くらしの今昔館/大阪パノラマ遊覧」と「特別企画展--五井金水氏とゆかりの画家たち」

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●大阪くらしの今昔館●

◎町並み

木戸門から入るとそこは、江戸時代/1830年代(天保年間)の大坂・なにわの町家の各店が並んでいます。

町通りを歩くと、左手のお店には:建具屋、小間物屋、唐物屋、呉服屋、右手のお店には、風呂屋、

人形屋、本屋、薬屋など。町通りの奥には「天神丸」が飾られています。

◎夜明け--日中--夕刻--花火

夕刻には、花火も打ち上げられました。

◎路地--裏長屋

路地を入ると、蔵、裏長屋などがありました。

◎大阪パノラマ遊覧

8階の展示室は近代の大阪の街の変遷をジオラマと映像で楽しむことできました。

◎特別企画展--五井金水氏とゆかりの画家たち

 

同8階の企画展示室では「五井金水氏とゆかりの画家たち」の特別展を見ることができました。

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後記:

おもろい・興味ある物がたくさんあり、時間が無いです。また、来ます。  OS


 

・日時:2023年06月09日(金) 10:00~12:00

・場所:クロスパル高槻 7F 702号室

・講師:関西大学(非常勤)若井 敏明先生

・講義:僧侶社会と行基


◎ 背景

・奈良時代:西暦710年から西暦794年の84年の間の日本歴史の時代の一つです。

・天皇としては、第43代元明天皇から元正天皇そして第45代聖武天皇が在位した時代です。

・都としては、元明天皇の平城京 聖武天皇の難波宮が置かれた時代でもあります。

 

・そして、この奈良時代は、仏教により日本国家を鎮護し花が開いた時期ともされています。

 *当時、日本の人口は約500万人 うち僧侶が約2万人 250名に一人が仏法関連であったようです。

 *僧侶は一般の平民と異なり学識者であり、地位もある人がなっていました。

 *特に中国などへ仏法で留学し帰国した僧侶は別格扱いされ、宮廷や国大寺(興福寺、薬師寺など)に

  居住し権力を持っていました。

 

◎ 僧侶の階級

  僧侶社会では、階層がはっきりしていた。

  トップは、僧正 そして僧都律師の順があった。

 

◎ 超エリートの僧たち

  1.道慈(どうじ):(?~744)

   奈良時代を代表する学問僧でした。第8遣唐使の一員として大宝2年(702)に中国に渡りました。 

   唐では、広く経典を学び、特に三論宗の精通したといわれます。

   帰国後、奈良時代の国家仏教の建設に多大な役割を果たし天平元年(729)に律師に任じられました。

 

  2.玄昉(げんぼう):(?~746)

   奈良時代の法相宗の僧でした。

   717年 法相宗の教学を学ぶために唐にわたり、帰国(735)後、政界で権力を握りました。

   聖武天皇による東大寺建立は玄昉の進言によるところが大きいといわれ、護国の仏教確立に大きな影響を与えました。

   藤原仲麻呂の台頭により、745年筑紫観世音寺に左遷され、翌年(746)その生涯を閉じました。

 

  3.長屋王(ながやおう):(684?~729)

   奈良時代前期の政治家でした。天武天皇の孫にあたりました。 

   元正天皇の後、即位した 聖武天皇 は、土地制度や仏教を政治に取り入れるなど様々な改革を行いました。

   元正天皇の代に実権を握った長屋王 は、聖武天皇即位後も引き続き政治の実権を握っていました。

   聖武天皇の左大臣として藤原氏に対抗する勢力をもっていましたが,謀反の疑いをかけられて自殺しました(729)(長屋王の変)。

 

  4.智光(ちこう):(709?~780?) 

    奈良時代の三論宗の僧でした。

    元興寺で三論を学び、「般若心経述義」「浄名玄論略述」など多くの書物を著しました。

    しかしながら、行基が大僧正に任じられたのを妬んで行基を誹謗したため、没して地獄に落ちましたが、

    懺悔して蘇り行基に帰依したといわれます。

    奈良元興寺極楽坊の残る「智光曼荼羅」と呼ばれる浄土変相図があります。以後、智光は浄土信仰に徹したとされています。


◎一般・平民から仏僧界に入った「行基」とは

  行基(ぎょうき):(668~749)

  飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧でした。平民から15歳で出家しました。

  朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、それを破って、近畿地方を中心に

  民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いました。

  併せて、困窮者の救済社会事業を指導しました。

  道場や寺院、溜池、溝と堀、架橋など各地を整備することにも力を注いだ僧でもありました。

 

  当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得て、その力を結集して逆境を跳ね返しました。

  その後、大僧正(最高位である位 行基:日本で最初に与えられた僧)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の

  実質上の責任者として招聘されました。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。

  聖武天皇に深く尊信され、人々は「行基菩薩」と呼んでいます。

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      ☆後記:奈良へ旅行し、奈良時代のことを味わってみたいな?

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◎街歩き----安満遺跡公園を散策

・日時:2023年06月09日(金) 13:00~15:00

・場所:安満遺跡公園

・講師:安満人倶楽部 濱田 正廣 様 他8名

・講義:「安満遺跡の概要について」


◎安満遺跡公園へ クロスパル高槻から"てくてく"歩いて到着

 道路の目印 900m 弥生人500歩--->----->------->----------->----------------->

             さて、弥生人の歩幅は??       (約60cm  現在人と変わらないのでは)


◎ 濱田講師から「安満遺跡の概要について」の講義が始まった。


約40分強の講義終了後、4班に分けられ、2名のガイドの方々と共に各見学コースがスタートしました。

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☆後記:時間がたりなかった。-- また、来よう!! (10名程度のグループであれば、ガイドがつくそうです)

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